中世 出雲大社の前には大きな湖が広がっていた。

 

奈良時代には出雲大社の前には、神門の水海という大きな湖があった。中世にも依然として大きな湖として、水運を担った港があった。近世には、河川堆積により一気に埋め立てられたとされる。

 

〝神門(かんど)の水海(みずうみ)。

 

郡家(ぐうけ)の正西四里五十歩の所にある。周りは三十五里七十四歩ある。中には鯔魚(なよし)・鎮仁(ちに)・須受枳(すずき)・鮒(ふな)・玄蠣(かき)がある。〟(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

※鯔魚(なよし)は、ボラ。鎮仁(ちに)は、チヌ。魚の種類から、当時の神門水海は、汽水湖であったと思われる。

 

神戸川(かんどがわ)河口

 

今は神戸川河口だが、奈良時代には神門の水海と日本海との結節点だった。

 

身逃げの神事,別火氏,櫛八玉命

 

 

湊原

 

出雲大社摂社・湊社の有る場所が、「湊原」という場所で、「大湊」という大きな港があったらしい。地誌にその説明があったが、その当時の地図を見ないと、文書の意味がさっぱりわからない。

 

〝大湊というのは、斐伊川と神戸川の河口部北岸の湊原地域にあった港のことで、湊社というのもこの港から生まれた名称であった。

 

この湊社は、さきに述べたように、七月五日の爪剝神事に先立って、別火財氏が神降しをして田の神を迎え(四月八日の影向神事も同様であったかも知れない)、

 

そして十月十八日の神上げ神事においてこれを送り出す場であり、こうした田の神の送迎の場であったこと自体の中に、杵築大社及び出雲国全体にとって、この地域がいかに重要な意味を持っていたかがよく示されている。

 

この大湊は、その名称からも推測されるように、出雲国を代表するとりわけ大規模な港であったと考えられ、湊社の存在から考えても、それが中世の早い時期から港として賑わっていたことが推測できる。

 

この地域に残る伝承によれば、かつてこの湊原地域は、五百石積の廻船が帆を上げたまま入港できる広い河口で、北側の入り江に停泊して交易が行われ、二〇〇戸余りの港町が形成されていたという。〟(大社町史編集委員会 『大社町史 上巻』 大社町発行)(太字は、私)

 

湊社の位置

 

「島根県古代出雲歴史博物館」展示物の奈良時代の地形図に「湊社」(赤丸)の場所を加えたもの

 

身逃げの神事,別火氏,櫛八玉命

 

 

大渡

 

『島津家久上京日記』(1575年)には、平田の町に泊まった後、杵築大社に参拝したことが述べられており、その後、神門水海で船に乗ったらしく、「大渡」をして渡り賃をとられたようである。

 

〝廿三日、打立行て、きつきの大社に參、それより行々て大渡といへるわたり賃とられ、さて行て崎田といへる町の清左衛門といへるものゝ所ニ一宿、下總酒もてあそひ候、〟(太字は、私)

 

この大渡しとは、どこの港から、どこの港を渡ったのか、図書館で調べたら、大湊→園湊というのが「大渡し」であることが分かった。

 

この園湊は、どこだったのか?「斐伊川河口部の南岸」というのが、どこを示しているのかよくわからないが、「園」という名前から、薗松山(そのまつやま)のたもとというか現在の長浜町辺りを比定する説もあるらしいが、確定された説と云うものがないようだ。

 

〝この湊原の対岸、斐伊川河口部の南岸には園湊がある。この両港は、足利尊氏の三隅尊氏誅伐のための兵糧の送り出しに重要な役割を果たしている。

 

この両港を結ぶ渡し場は大渡しと言われていたようで、湊原(大湊)は石見部からの陸路の渡河点にもあたり、大社参詣の入り口としても重要な位置を占めていたことが推察される。(『国富郷土誌』 国富公民館発行)(太字は、私)

 

現在の地名で、それらしいところはないか、調べると、「芦渡」という地名がある。

 

古志本郷遺跡の近くで、神門川の河口の西側であった場所である。『出雲市地名考』という本で調べると、奈良時代は、「足幡」だった。ここも、正応元年には、神門郡薗であった。

 

〝芦渡(あしわた)──蘆渡──足幡

 

 奈良期の天平11年(七三九)『出雲国大税賑給歴名帳』(正倉院文書)に足幡里(あしわたのさと)とみえ、古志郷内の三里の一つであったと推定される。

 

 正応元年(一二八八)11月『将軍惟康王家政所下文』(小野文書)に「出雲國 神門郡薗、林木 地頭併同蘆渡郷内門田参町、屋敷壹所若□□□郎藏人人道法師跡」とみえる。〟(永田滋史 著 『出雲市地名考(下)』出雲市教育委員会 )

 

出雲大社の築造する木材を神門水海をはさんで出雲大社の対岸の吉栗山から調達したことが、『出雲風土記』に述べられているので、必要度から考えて、神門川がつながる古志の近くの芦渡にあっても良さそうに思う。

 

次なる目的地「崎田といへる町」が、一説によれば多伎町の田儀ということなので、水上交通だけ考えると、美久我林のあるところ、薗松山の一番南側、現在の湖陵町辺りにあったほうが便利だ。

 

ただ、宍道湖の港のように、どこでも、船着き場になりそうな地形の湖であったと想定できるし、港も複数あったに違いない。

 

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